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微かに感じた振動で目が覚めた。背中が少し痛い。フローリングにくっついていた頬が赤くなっていそうだ、と思った。どれくらいの時間寝ていただろうか。簡素なワンルームから、初夏の夕方の空気が窓から抜けていくのを感じる。こんな気温の部屋では、たいして床も冷たくなかった。こんなところで寝ていたと知ったら、あの子は怒るかな。
ガチャリと、耳なじみのあるドアの音がした。
「ただいま帰りました」
床から体へ伝わる振動がどんどん大きくなってくる。
「大丈夫ですか!」
「うん、寝てただけだよ」
「はあ、よかった...... またこんなところで寝ちゃってたんですか。暑いんだからエアコンつけてくださいって」
「わかってるよ」
「送ったLINE見てないってことですね、電話も何回もしたのに」
「ごめんね」
「心配してるんですよ。…………」
「今日は麻婆豆腐ですよ」
「やった、ありがとう」
「――先生、大好きです」
半身だけ起き上がったわたしを、彼女の白くやわらかな腕が包む。
「うん」
黄色い瞳が、わたしを見つめて細くなった。
***
「よおし、できた。」
「いい匂いだね」
「今日のは辛いですよ。……お風呂、入りましょうか」
わたしは読んでいた本を閉じ、いつものように脱衣所に向かう。エルが手際よくわたしのための軟膏や塗り薬なんかを準備してくれている間に、鏡の前で服を脱いでいくと、私のたくさんの火傷のあとがむき出しになる。あの日、私がもっと強かったなら、彼女は今も自由に羽ばたけていたのに――
すぐに、天使はまた私の前に姿を現した。
「お待たせしました」
「待ってないよ」
あらわになってゆく彼女は、まるで白百合のようだ。穢れを知らない心を持った美しい天使が目の前にいる。いまは籠の中に囚われた、愛しい天使。
わたしは風呂の椅子に座り、彼女に身体を委ねる。
「まだここは少し痛みますか」
「うん」
全身に広がる傷跡に注意しながら、エルの手が慣れた手つきで動いてゆく。
***
彼女のまだ少し濡れた巻き毛から私と同じシャンプーの香りがする。細く白い指が私の傷跡一つひとつに薬を塗る。
「あれ、この軟膏もうなくなりそうだ、メモしなきゃ」
「ありがとう」
「先生のためなら」となんでもしてしまうエルがとても愛しいと思う反面、私でいいのだろうかと、もっと広い世界を知ったほうがいいと思う。
そもそも、彼女に「先生」と呼ばれるよ うになったのは三年前だった。その頃の彼女はまだ小さな子供で、彼女がわたしと暮らすなんて思ってもいなかった。天使の成長は早いもので、すくすくと育つ彼女を親のように見守っていたのだが――
彼女のわたしを見る目が変わったのは、あの日で間違いないと思う。エルを庇って炎を浴びた日。
「先生、終わりましたよ」
***
月はいつの間にか高く登っていた。
「そろそろ、寝ようか」
「はい」
電気が消えると、世界で二人きりみたいだった。カーテンの隙間から差し込む月の光が、エルの髪の毛を照らす。
「……先生、さっきからよくないこと考えてませんか」
「……」
彼女は私が何を考えているか、お見通しみたいだ。
「エルには幸せになってほしいんだ。この狭いところにいるべきじゃないよ。まだ若いだろう。これから、どこへだってゆけるよ。どこへだって行っていいんだ。」
「先生はいつも私のことばかり。先生の気持ちを聞きたいです」
「…………」
わたしの気持ちなんて、そんなの決まっているじゃないか。この瞳が別の誰かを映すなんて、でも……
「君のそれは愛情じゃない、同情なんだよ」
「違います!なんで分かってくれないんですか!私は、先生が可哀想だから一緒にいるんじゃない。こんなに、こんなに、私はあなたを愛しているのに!」
薄暗い中、彼女の目に涙が浮かぶ。
「だったらもっと外を見てみろ。第一に、わたしは人間で、君は天使だ。それに、エルには、もっといい人がいるよ」
「私は自分自身で先生を選んだんです!」
「だって、君はまだ子供だ」
「もう子供じゃない」
「君は、私なんかと一緒にいていい存在じゃないんだよ!」
「…………先生、泣いてるじゃないですか、ほんとは、そんなこと思ってないんですよね」
「……」
「本当にそう思っているなら、そんな顔しないです」
「ずっと怖かったんだ、君がいつかいなくなるのが。エルがいなくなったら、私は、」
「先生、私はずっと先生のそばにいます。約束します。私は先生を選んだんです、絶対どこにも行きませんよ」
エルは私の手の甲にそっとキスをした。
彼女は私の手を握ったまま、まっすぐにわたしを見つめた。
「……先生、愛しています」
「――わたしも愛しているよ、エル」
月明かりに照らされた彼女は、少しも囚われているように見えなかった。